時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

寒波を楽しもう

6月も後半。

パタゴニアは厳しい寒さを迎えています。

去年は水道が凍ることも殆どありませんでしたし、「ひゃ~寒い!」と思う日も数えるほどしかありませんでしたが、今年は秋の4月に雪が降り、水道が凍ってそれが溶けず蛇口から水の出ない日が2週間近く続きました。

今週に入ってから寒波はぶり返し朝はマイナス7℃、8℃、日中も薄曇りで気温が上がりません。

 

朝8時半、同居している女の子が「おはよう。ねえ、見て見て。」と部屋から出て来ました。

何事かと思ったら、彼女の部屋の窓ガラスが凍って綺麗な模様を描いていました。

「素敵!」

暖かいブエノスアイレス出身の彼女は、その模様を暫く眺めていました。

そう言えば移住当初、十分な暖房施設がなく、朝起きると家中の窓ガラスが凍っていて、寒いと思うよりもその美しさに感動していた事を思い出しました。

あの時は、凍った窓ガラスに感動し、霜柱の道をザクザク踏みながら犬たちと散歩するのが大好きでした。

今は煉瓦ストーブのおかげで、朝起きても炭火が残っていて部屋が暖かく、霜柱の道も転ぶのが怖く避けて歩くようになっていました。寒くて不便な冬が少し苦手になっていました。

人って、気持ち1つで何でも楽しめ感動できるんだと改めて思いました。

残りの冬をもっともっといろんな感動を見つけ、楽しんでいこうと思います。

 

ところで厳しい寒波は標高が150m低いエルボルソンの街でも変わらず、公園の池が凍ってまるでスケートリンクのようです。個人家庭は夜に水を出しておいて凍らない対策が出来ますが、学校ではそれが出来ずに、水道が凍って水が出ないから休校となったそうです。

 

町には地域犬がいます。特定の飼い主はいませんが、ご飯をあげ、愛護団体と協力して避妊手術をしています。犬たちも状況をわかっていて、公園で物を食べている人たちの前で、じっと辛抱強く待っていたり、喧嘩したり吠えたりしません。だいたい吠えてくるのは放し飼いの飼い犬たちです。

空き地や広い歩道のスペースには写真のような犬小屋も有り、寒い冬にはちゃんと敷物も敷いてあります。

家族のいない犬たちのその状況を幸せだと私は思いませんが、こうして地域の人に守られている事が救いです。どうか元気でと願わずにいられません。

 

我が家の犬たちはと言うと、日中のほとんどを家の中で過ごしています。

をの姿を見ながら、もっと元気でいよう。しっかりしよう。感謝しよう。楽しもうと強く思いました。

 

 

 

 

結構大きなお家です

ほかほか

 

自慢のエディちゃん

街の友人宅から


5月末から連日氷点下の日が続いています。早朝はマイナス5度から7度まで下がり、日中も気温は上がらず凍らせてしまった水道管が溶けずに、2週間以上蛇口から水の出ない日々を送っています。水は常に外の2つの600リットルタンクに貯めていて、いつもその日に必要分を表面の氷を割ってポリタンクに入れ運んでいます。ところが、そのタンクの水がだんだん心細くなってきています。30年ん近く住んでいて、こんな事初めてです。

でもまあ、タンクの水が無くなったら、100m離れた水路から直接バケツで水を汲んでくれば良いことなんだし、何とかなるでしょう。それに、こんな生活をしている自分が面白く、それができる自分に感謝しています。

 

山に囲まれた土地ですが、我が家からは地形の関係で山があまり見えません。それで雨上がりに街に行くと、真っ白に雪化粧している山が見え、その迫力、美しさに毎回毎回慣れたり飽きたりする事なく感動しています。

 

冬の前に必ず車の準備をします。と言っても私は何も分かりませんので、オイル交換をしタイヤのローテーションをし、バッテリーの状態を確認するだけですが。

日本ではお目にかかれないと思いますが、私の車は2003年型の左ハンドルのトヨタハイラックスです。

アルゼンチン、特に地方の街では車の整備所は沢山ありますが、ちょっと車に詳しいからとか、人より道具を持っているからとかの結構(可成り)いい加減な整備場が多いです。また、オリジナルの部品を使わずある物で代用したり、解体して組み立て直した後、部品が余っても、まっ良いか!みたいな事も多々あります。自分で応急処置しながらだましだまし乗っている人もいます。(ずいぶん以前ですが、ブレーキの効かない車に同乗して恐ろしい思いをしました)

ですから高いですが、信頼できる友人が利用している車整備場に私もお願いしています。

 

新車はとてつもなく高価で、その後の税金も高く、この街で買える人は殆どいません。けれども中古車で快適に乗れるものを探すのも物凄く難しいです。それで車を買い替えたい人達は、いつもアンテナを張っています。

 

バッテリー交換に行った時、お店の人に

「この車いつ売るの?売るときは絶対知らせてくれ。」と言われました。

実はこう言われたのは初めてではありません。

親しい友人からも頼まれていますし、ガソリンスタンドでも、駐車場でも知らない人から話しかけられます。

 

勿論売る気は全くありません。売ってしまったら新車を買うのは不可能だし、中古車で私が乗りこなせる車に出会う可能性はゼロに近いです。何よりも売買にかかる手続きの煩雑さを思うとうんざりします。

それに亡き父からの援助で手に入れることができた車です。エディちゃんと呼んで(ナンバープレートがEDYなのです)15年近く一緒にいる私の大切な相棒です。

離れる気はありません。

 

でも、こうして結構注目されて人気があるのはエディちゃんの魅力が輝いていると言うことで嬉しいものです。

反面、車の中の私も見られているということで、あんまり恥ずかしい事は出来ないなあ、譲り合いの安全運転しなきゃあと心がけています。

 

来年エディちゃんは20歳。州によって違いますが、税金が免除になりなす。

古い車ほど税金が安く、車検も免除になります。なんか変だなと感じますが、そこがまたアルゼンチンの面白いところです。

 

毎日楽しい事を見つけ暮らしていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

エディと虹

 

アルゼンチン革命記念日に食べる伝統料理

5月25日

この日はアルゼンチンの革命記念日。祝日です。1810年ラプラタ副王領の一帯がスペインから独立しようと宣言した日で、7月9日の独立記念日に続きます。

そして冬が始まるこの季節だからか、アルゼンチン料理ロクロを食べる習慣があります。

これは白いロクロ用のトウモロコシ、豆類、かぼちゃを肉やアルゼンチンソーセジ(チョリソ)と煮込むシチューです。煮込み料理ですから、大鍋で大量に作るとますます味が出て美味しくなります。ですから祝日のこの日、各地で、広場や体育館などの広い場所で大鍋でロクロを作り、売っています。一度だけ街に住む友人がこの日昼食に招待してくれ、広場に器を持ってこのロクロを買いに行きました。

アルゼンチンにはあまり郷土料理はありません。アルゼンチンの代表料理って何?と聞くと、一番に炭焼き焼肉アサードという答えが返ってきます。

それからエンパナーダ。これは大型なパイで、中にはひき肉とかチーズとハムとか、各種野菜の具が入っています。地方によって多少具の違いはありますが、全国ほとんど変わりありません。

そのほか、牛の骨の髄で野菜を煮込むギソ、トウモロコシ粉で作るポレンタなどがあります。

私は動物性タンパク質は食べませんから、牛肉文化の伝統的なアルゼンチン料理は食べられませんが、最近ではどこへ行っても、どんな小さなお店でも、ベジタリアンメニューはありますし、卵も乳製品も食べないベーガンメニューも増えました。肉食の国アルゼンチンでこの流れは凄いことだと思います。

中には考えが硬すぎと思う人もいますが、動物愛護や環境問題からの畜産業、海洋業への問題提起から、私はこの傾向を歓迎しています。

 

ロクロは私が一番好きなアルゼンチンの料理ですが、自分1人では作る事はありませんでした。

それで25日に食べる伝統の事もすっかり忘れていました。

 

今年は夏に来たボランティアの1人、日系三世の女性をずっと受け入れています。カナダ留学を機に価値観が変わり、高給の仕事を辞め自然の中で自分らしい生き方を探したいと我が家のやってきました。彼女は日本語が話せ、時間に正確、真面目で働き者で、人に対する気配りがあり、犬が大好きで私と同じベーガンで長期同じ家にいても全く疲れません。

その彼女が25日にロクロを食べましょうと提案してくれました。

ああそうか…アルゼンチンの文化習慣だったじゃない、数少ない季節行事だったじゃない、と思い出しました。

火曜日の彼女の調理当番を25日水曜日に変更してベーガンロクロを食べました。

 

来春から彼女と彼女のいとこの男性と一緒に、農場プロジェクトを始めます。これは自然の中で暮らす楽しみを共有するプロジェクトです。題して「ありがとう農場プロジェクト」です。

初年度はボランティアと共に、バイオトイレ、排水浄化システム、宿泊施設の増築、パン焼窯、自家堆肥だけの無農薬畑などを作り、次年度からは味噌や豆腐、日本食の講習会、焼き物教室、餅つきなどの日本文化交流会を企画して体験農場の様な形で人を受け入れていこうと計画しています。コミュニティーの様な形にすると、何年か後には必ず問題が起こり上手くいかなくなるので、あくまで私が主体で、私の農場を解放していく形にします。そして近い将来、私の夢を引き継ぎ、大きくしていってくれる後継者に手渡していこうと思っています。

 

まだ計画だけでどうなるか分かりませんが、一歩踏み出さない限り、何も学べないし何も始まりません。

30年以上私を縛ってきた、「私は1人では何もできない」「人から好かれない」「常識も気配りもない」という思いから、今少しづつ解放されています。

そう私は1人では何もできないから、できる人に素直にお願いして助けてもらう。人から好かれなくても、人を好きになろう、少なくとも相手の粗探しはやめよう。常識の枠が当てはまらないなら、私にあった常識の世界に移ろうと気持ちが切り替わりました。

 

歳だから仕方ない。持病だから仕方ない。と言い訳するのもやめました。

「最近どう?」と聞かれたら、「絶好調」と答えようと思います。

発病当初、尊敬するお医者様から「心は体を支配できるから」言って頂いた言葉を大切にして、進んでいこうと決めました。

ロクロとえんどう豆粉のチャパティ

 

1周年記念

5月9日

この日はバターくんが突然我が家にやってきた記念日です。

1年前のこの日、友人達と焼き物の窯焚きをしていました。我が家のワンコ達がワンワンと騒いでいたので行ってみると、訪問者の周りを我が家の3匹のワンコ達に混じって、バターがいました。

今まで一度も見たことのない子だったけど、バターがあまりにも自然に我が家のワンコ達に溶け込んでいたので驚きました。

最初は一日中いることも少なく、夕方には姿を消していました。また数日来ない日もありました。ご飯も可哀想だったけどあげませんでした。首輪はしていませんでしたが、どう見ても野良さんではないので居ついてしまって本当の家族を心配させたくなかったからです。

でもワンコの食事時に一緒に待っているようになり、愛おしくて少なめにご飯をあげるようになってしまいました。

年末頃には、1日の殆どを我が家で過ごすようになり、ご飯もしっかりあげるようになりました。ただ週末には姿を見せない日もあって、きっと本当の家族と週末だけ一緒に過ごしているんだろうななんて思っていました。

3月レンガのストーブを作りました。その時、入り口は開けっ放しにして作業をしていました。するとバターが初めはおずおずとでしたが家の中に入ってくるようになりました。

そして次第にごく当たり前のように、作業している私達の側で寝て過ごすようになりました。

そうなると、もう会えない日があると心配で心配でたまらなくなりました。

今では夜も家の中で寝ています。

本当の家族には申し訳ないけれど、「バターは大切なうちの子、大好き。居なくならないでよ。」と毎日言って聞かせています。別に閉じ込めたり繋いだりして行動を制限しているわけでは無いので、帰りたければ自由に帰れます。月に2回くらいは半日姿を見ない日もあります。

 

唯一のオス大将くんは、時々牙をむいて怒りますが、バターは争いを避け離れて行きます。喧嘩にならないように細心の注意を払い、大将が嫉妬しないように気にかけています。

 

他人から見たら何でもない退屈な話かもしれませんが、私はバターや大将、悟り、ホセフィナとの生活が、幸せで楽しくてたまりません。

私にこんなにも幸せをくれる犬達。

私はみんなに何かお返しできている?

 

今一緒に居られる事、掛け替えのない時間。大切に味わって行きます。

 

4月の終わりに雪が降り、あまりにも早い冬に驚きましたが、翌週は汗ばむような陽気に。

雪でポプラや果樹の葉は落ちましたが、南極ブナが今まで見た事がないほど鮮やかな赤色に染まりました。

新しいレンガの薪ストーブは、いつまでも温もりが残り快適です。暖かい冬を過ごせそうです。

 

 

一番人気の犬ベッドを独り占め

 

また会おうね。ありがとう。

猫の福は私の自慢でした。

「この子、もうすぐ20歳になるんだよ」と言うと、誰もが驚きました。

それは福が毛もフサフサで、しゃんとしていて、かわいい声で鳴いて、撫でると物凄く大きなゴロゴロ音を響かせて、歯もほとんど揃っていて、どこからどう見ても20歳になる猫には見えなかったからです。

最近は1日のほとんどを寝て過ごしていましたが、気が向くと膝に乗ってきたり、お腹が空くとかわいい声で催促してきました。

束縛されるのが嫌いで、無理に抱っこをするとシャーと怒って飛び降りました。爪切りも一苦労でした。

猫用出入り口を作って、自由に外に行けるようにしていました。

それでネズミをわざわざ家の中に運んで来て、時々逃げられて大騒ぎになったり、朝起きたら鳥の羽が部屋に氾濫していて真っ青になったり、3ヶ月家出して帰ってこなかったりと今なら笑える出来事も数多くあります。

犬達のように私にべったりではなかったし、付いて回ることもありませんでしたが、私のパタゴニアでの暮らしの大切な相棒でした。

 

突然何も食べなくなって、水ばかりを飲むようになって、決して失敗したことなかったのに、お漏らししてしまうようになりました。

それでもそんな状態で1週間私の側に居てくれました。可愛い声も、ゴロゴロ音も聞けなくなったけど、苦しそうに呻くことも、痛がることも、徘徊することもありませんでした。

 

私はただ薬草水で湿らせた脱脂綿で顔を拭いてあげ、薬用cannabisを口に含ませてあげることしか出来ませんでした。

病院に連れて行くことは考えませんでした。

福は車が大嫌いだったし、強制的に何かをされる事も嫌がったし、もし連れて行っても、点滴をうつくらいしか方法は無いと思ったからです。

動物はきちんと自分で逝く時を知っているから、私が何も決めることは出来ないし、邪魔してはいけないと思いました。

 

福を埋めてお別れしても、涙は出ませんでした。

まだ早いよ。一緒に20歳の誕生日をお祝いする約束したじゃない。そんな思いもありましたが、それ以上にありがとうと言う気持ちで心がいっぱいで、若い頃のように、もう会えないんだと悲しくて大泣きすることはありませんでした。

今は会えないけど、私がそっちの世界に行くのは、遠い夢のような時間では無いと実感できる年になったからかもしれません。

 

また会おうね。

またグルグル音聞かせてね。

一緒にいてくれてありがとう。

こんな優しい気持ちにさせてくれてありがとう。

楽しかったね。

大好きだよ。

 

私と最後の時を過ごし、看取らせてくれて本当にありがとう。

 

福のように逝きたい。

福のように優しい気持ちを残して行きたい。

そして何よりも福のように生きたいと思います。

 

 

 

 

福のお気に入りの場所

主のいない場所

 

セマナサンタ

セマナサンタ  日本ではまだあまり馴染みがないですが、復活祭とかイースターとか言うのでしょうか?キリスト復活を祝う日です。

 

移住したての約30年前、エルボルソンは山間の鄙びた静かな村でした。

光都市バリローチェ間は約130kmありますが、当時は舗装道路もなく対向車とすれ違うのも怖いくらいの狭いガタガタ山道が続いていました。

2時間半以上かかった道も今は国道が完備し、渋滞のある夏の観光シーズンを避ければ1時間あれば行けるほど近い隣町になりました。

またエルボルソンの街も、舗装道路は少なく、信号もなく、大きなスーパーもありませんでした。馬に乗った人や牛車もいました。

その古き良き時代?には、このセマナサンタの週は肉屋から肉が消え、魚を売っていました。初めての年、肉食の国アルゼンチンで肉を売らないと言う日があることにひどく驚きました。

のどかな田舎町では、宗教的習慣が残っていたのです。

家庭では何日も前から卵の中身を抜き、代わりに甘くしたピーナッツを入れて閉じ外側に色をつけたり模様を描いたり、ロスカと言う大きなドーナツ型のフルーツケーキを作ったりしていました。

 

今では肉屋から肉がなくなる事はありませんし、スーパーやお菓子屋には卵型やウサギ型のチョコレートやロスカが綺麗に包装され売っていて、手作りする人もほとんどいません。

セマナサンタは夏の観光シーズン最後の掻き入れ時です。日本と違い、セマナサンタの三日間は祝日です。昔のような宗教的雰囲気はなくなり、すっかり商業的行事に変わりました。

 

私にとっては車と観光客の多い街が静かになる最後の祝日という事で、毎年ホッとした気持ちになります。

 

パタゴニアは綺麗な秋を迎えています。今年は山の紅葉が例年より少し早く、鮮やかな気がします。山は南極ブナが紅く染まり、里は防風林として植えられているポプラが黄金色に輝きます。風が吹くたび葉が舞い落ちて、朝と夕方では景色が変わってしまうほど変化が早いです。

 

また今年もアンデスの山の紅葉を見る事ができた。

農場に舞い落ちた黄葉の葉をカサカサ踏んで歩く事ができた。

パタゴニアの季節の移り変わりの中に、私も参加できた。

 

今ここにいる自分を少し不思議に感じます。そしてそれ以上に今ここにいられる自分を幸せだと感謝しています。

 

 

 

 

f:id:nojomallin:20220415224302j:plain

街の景色

f:id:nojomallin:20220415224509j:plain

街のもみじ

 

もう秋です

f:id:nojomallin:20220331030209j:plain

馬も舗装では膝を痛めそうで可哀想です

f:id:nojomallin:20220331030503j:plain

パタゴニアでは梅の実は実らないので、プラムで梅干しを作ります



雨が上がってみると、アンデスの山が雪化粧していました。快晴ですが、吹く風が肌を刺す様に冷たい訳です。

もう4月。里のポプラが黄金に輝き、山の南極ブナが赤く色付きます。美しい秋の到来です。

 

今年は林檎の実が1つも付きませんでした。農場には種類の違う30本以上林檎の木があるので、どんなに不作の年でもゼロという事はありませんでした。我が家の林檎の木は、殆どが種から育ったもので、剪定も施肥もしていない野生の林檎です。

去年は大豊作で収穫したものを一つ一つ紙に包んで箱詰めし、12月位まで食べていました。勿論ジャムも、薄切りにした乾燥林檎も、酢も作りました。酢は想像以上に美味しく出来、今年も仕込もうと思っていたので残念です。

プラムは数本の木に実がついてくれて、なんとか3キロくらい収穫できました。

梅干し(プラムボシ)にしました。

去年味噌を卸しているお店に試供品として持って行ったら注文が入る様になり、今年も持って来てとお願いされていたので、ゼロでは無くてホッとしました。でもボランティア用のジャムは作れませんでした。

あと2週間ほどしたら菊芋を掘ろうと思います。菊芋の味噌付けは私は大好きなのですが、他の人にはあまり人気がありません。菊芋はどんな年でも収穫があり、とても強い植物なので、根気よく普及に努めたいと思います。

 

時間が流れて行きます

月日がどんどん過ぎて行きます

世界がめまぐるしく変わっています

 

そして私自身も変化しています。

出来なくなったことも多くて、不便なことも増えたけど、嬉しいことや心安らぐこともいっぱいあります。

微笑むことができる自分に、今の暮らしに感謝します。

それだけで十分なんだと思います。

 

私が住むマジン地区の周遊道路も、半分が舗装に変わりました。夏の砂埃問題や、ガタガタ道での車の故障が減り喜ぶ人が増えましたが、今度はスピードを出して走る車の騒音に悩まされることになりました。

私の家は周遊道路の真ん中あたりにあり、良くも悪くもあまり影響はありません。

残り半分の舗装も数年のうちに実行されるでしょう。

車が走りやすくなり、砂埃の問題も解決しますが、私は舗装には賛成できません。舗装にするために木が切られ、車がスピードを出して走る様になって野うさぎや鶏、犬猫たちの交通事故、車同士の事故が増えました。

でも舗装を止める事は出来ません。今は写真の様な標識があって、マジン地区らしい雰囲気を残しています。でもきっと何年かのちには、馬で移動する人もいなくなっていくでしょう。

 

「昔は良かったなあ」なんて言う年に自分もなりました。でも無理してでも「将来が楽しみだな」と言おうと思います。粗探しは簡単です。でも心は晴れません。それならば心が喜ぶ事を見つけそれを磨いていこうと思います。

何よりも、今ここにいる自分を楽しみたいと思います。