時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

「2010年 ワールドカップ」


ワールドカップ。いよいよ始まりました。サッカー国アルゼンチンに暮らしている者として、これほど「・・・ことはありません。」

さて、私は「・・・」に何を入れるでしょう。

パタゴニアに暮らし始めたのがワールドカップ米国大会の1994年。あの当時ここマジン村は人口も少なく、電話も無く、テレビを持っている家もありませんでした。今思うと本当に平和で静かでのどかな暮らしでした。自然の中ではそれはただ「退屈」なものだと感じさせてくれる毎日でした。でも、ワールドカップは別でした。貸しテレビ屋なるものが現れ、イギリス人の移住者家族が家に白黒テレビを設置し、アルゼンチンの試合の日には近所の人が集まって観戦していました。サッカーに全く興味の無かった私も、夫と共にサッカー観戦に出かけ、初めて南米のサッカー熱の凄さを身近に感じました。

1998年は仲良しの友人が130km離れた自宅から2台あるテレビの内1台を持ってきて貸してくれました。ザーザーと写りの悪い画面でしたが自宅でワールドカップを見ることが出来ました。アルゼンチンの試合の日には近所の人も見に来ていました。ただ写ったのは国営放送のみで、その当時はまだ全試合の放送はされていませんでした。

2002年には我が家にもカラーテレビがありました。これは義父が2年半ここで暮らした時買ってくれた物です。韓国日本共同開催とあって、懐かしい風景が出るかとそちらの方を楽しみに見ていました。ただこの時、国営放送で平然と日本(韓国にはなかったのですが)を馬鹿にしたコマーシャルを流していて、「まさかここまでする?」と呆然とした気持ちでした。その時「国としてのアルゼンチン」が好きでは無くなった様な気がします。

2006年、私は殆どワールドカップを見ませんでした。一度だけドイツ人の友人に昼食に招かれ、そこで衛星放送の試合を見ました。その頃は経済的にゆとりのある家では衛星放送を見るようになっていましたし、マジン村でも人口が増え、電話、テレビは割りと当たり前の物になっていました。けれども人口増加と住民の価値観に反比例する様に、私の意識は変わっていきました。便利と本当の豊かさは違うと分かり、持っていたテレビも倉庫に仕舞い込みました。「変人」とか「やっぱり日本人は」とか言われても、私は私の信じた道を私らしく歩こうと決めたのです。

そして2010年。始まったワールドカップを見たいとは少しも思いません。あれだけサッカー狂だった夫も、今では殆ど興味を持っていません。夫の変化は彼自身に語ってもらうとして、私は今の暮らしや自分をとても楽しんでいます。面白いことに「皆と仲良くしなきゃあ。」と無理していた時より、今のほうが本音で付き合える友人に恵まれています。「ワールドカップ興味無し」と言い切るアルゼンチンの友人の方が多くもなっています。

今では衛星放送用のパラボラアンテナはここマジン村でも「当たり前」の風景です。廃材利用の不法滞在のお宅にも付いていたりします。

ワールドカップをお祭りとして、ただ単純に楽しく面白く観戦するのも悪くは在りませんが、私はそのエネルギーを別のことに使いたいと思っています。

さて、冒頭の「・・・」ですが、

アルゼンチンに暮らしているの者として、ワールドカップをこれほど「厄介だと思うことはありません。」

私のカレンダーには赤丸でアルゼンチン試合日がチェックしてあります。これは大騒ぎに巻き込まれたくないので、この日には決して町には行かないためです。運悪く日本語教室の日に重なっていますが、幸い時間帯が違うので、教室終了後は買い物もせずに家へ帰ってくるつもりです。この田舎町で日本語を学ぼうという「変わった?」生徒さんたちも「サッカー興味なし」と言い切っています。