時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

アルゼンチン移住者となるまでのこと

nojomallin2005-06-25

20代後半まで、海外に全く関心が無く、言葉も習慣も違う国に行く勇気も無く、当時3年もつき合っていた恋人(現夫)から、アルゼンチン移住の為、開発青年の試験を受けると聞いた時も「それじゃあ、お別れだね」と、自分がついて行くなんて事、考えもしませんでした。それが、一人ぽつんと残された後、知人の紹介でブルネイ王国へ農業研修に行ける機会があった時、ふっと「行ってみよう」と思ったのです。
ブルネイ王国での3ヶ月は「人が信頼し合うのは言葉や国籍じゃあない」そんな当たり前の事に気付かされ、臆病だった私を少しだけ変えてくれました。そして、初めてアルゼンチンを訪れた時、ごく自然に「この国で暮らそう」と思ったのです。それは大好きになったから、とか楽しい思いをしたから、と言ったものでは無く「この国で暮らすことは、凄い緊張感がある。だからきっと面白い」という、訳の分からないものでした。そして1993年11月、アルゼンチンJICA(国際協力事業団)の移住事業最後の移住者としてアルゼンチンへやって来たのです。ところで、その当時すでに、アルゼンチンで日本人が永住権を取得するのがとても難しくなっていました。私の場合、夫の友人で日系弁護士さんのお骨折りのお陰で、11ヶ月の期限付きながらもDNI(身分証明書)を直ぐ手にすることが出来ました。これはとても幸運な事でした。なぜなら旅行者として3ヶ月毎に国外へ出る必要も無く、アルゼンチンでの車の免許試験を受ける事も出来たからです。ただ、11ヶ月毎に期限延長をしながら、手続きの為何度もブエノスを往復して、友人弁護士さんの強力な手助けがあっても「永住権」を取得するのに3年掛かりました。
さて、取りあえず、夫が2年間養蜂研修させて頂いたブエノスアイレス州ネコチアと言う海辺の町に落ち着き、夫は先輩移住者の養蜂場でアルバイトを始めました。そして暑いのが苦手で、山の自然の中で暮らしたいという漠然とした理由から「パタゴニアアンデス山脈の麓での田舎暮らし」と決め、毎晩地図を見ながら、これからの生活の夢を膨らませました。「これからどうなるのかな、大丈夫かな」という不安と、「何とかなるさ」という楽観的な気持ちが交差する毎日でした。(つづく)