時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

新しい出会いにワクワクする春

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八重桜と姥桜


10月も半ばを過ぎ、今年もworkaway でボランティアを受け入れる時期になりました。

昨日からペルー人の28歳の女性が来ています。

彼女は2年前からブエノスアイレスの大学に留学していて、去年も我が家に来たいと連絡をくれましたが、既に他のボランティアが決まっていたのでお断りしました。

そしたら今年はまだ募集をしていない9月早々にまた連絡をくれたのです。

本来なら天気の安定している11月から受け入れを開始するのですが、今年は雨が降らず、日中はもう汗ばむほどの陽気となっているので、外仕事には夏より快適な今の方が効率が上がると思いokしました。

私は1週間から10日までの短期受け入れを原則としていますから、既に今年一杯はボランティアの予定が決まっています。

今でも連絡をくれる人、薪小屋増築、畑の柵はり、排水口修理などボランティアとは思えない程の専門的な仕事をしてくれた人、驚くほど役に立たなかった人、わがままで厚かましかった人、明るかった人、哲学的だった人、本当に色々な人に出会いました。

きっとここで1人で暮らしていなかったら出逢うことのなかった人達で、良くも悪くも今までしたことの無い経験が出来ました。

さて、今年はどんな出会いがあるか楽しみです。

 

こうして人を受け入れる事で、ここでの暮らしが好きになって、この農場に私と似たような思いを感じてくれ、動物も植物も全ての命を慈しんでくれて、大切に引き継いで行ってくれる人と出会えるきっかけになると信じています。

 

まだまだ早朝はマイナス近くにまで気温が下がりますが、パタゴニアは春爛漫です。

街の八重桜が満開で見事です。1人で写真を撮っていたら、見知らぬおじさん(私よりも若いでしょうが)が、桜と一緒に写真を撮ってあげる。と声をかけてくれました。

そして「心配だろうから自分の携帯を君に預けておくよ。」と言われました。

でも私には信用できるエネルギーを感じたし、もし彼が盗んで逃げて行っても、大声で叫べば周りが追いかけてくれる安心がありました。(正直それはお勧めできる事ではありませんが)

 

農場では水仙やチューリップは終わろうとしていますがさくらんぼの花が満開です。

朝日が一番に当たる畑の隅のリンゴがもうぽつぽつと咲き始めていました。

いい香りの野生ランもぐんぐん大きくなっています。緑の絨毯の大地にたんぽぽの黄色い花が映えています。

玄関脇のボケの木が大きくなって、花の壁を作ってくれました。それを見た女の子が「ジブリのの千尋みたい」と喜んで通って行きました。

花の季節になったので、ハチドリの砂糖水の給餌はやめましたが、ブルルルと逞しい羽音がボケの花の茂みから聞こえます。

 

人間の世界では戦争があり、環境破壊が進み、あらゆる差別があり、情報操作があり、知れば知るほど息が詰まりそうになります。

でも自然はどんな時でも諦めたりヤケになったりせず、淡々と命を紡いでいきます。その優しさと逞しさに私は背中を押されて進むことができています。

前を向いて笑って進める自分を幸せだと感謝しています。

 

 

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ボケの花の壁

 

春の町を行進する

カレンダーをめくって、「えっ」と声が出ました。

10月になって、今年も後3ヶ月なんだと気づき、時間の流れの速さに改めて驚きました。

 

天気が悪いと薪ストーブを一日中焚いていますし、快晴の早朝はマイナスにまで気温が下がりますが、春は確実にやって来ています。

梅の花は散り、水仙も花の時期を終わろうとしています。

今はボケの花が満開です。もう少ししたらタンポポとチューリプが咲き、さくらんぼの蕾が膨らむでしょう。草たちも緑濃くぐんぐん大きくなっていきます。

春特有の西風が時々大荒れします。屋根が吹っ飛ばなきゃ良いんだけど、と何時もハラハラしています。

 

 先日、生まれて初めてデモに参加しました。

アルゼンチンへ来た当初、都市では度々大きなデモがあり、道路閉鎖されていました。

給料を上げろとか、社会保障をしっかりしろとか、治安維持とか、本当に様々な理由がありました。デモでは必ずと言って良いほど略奪、暴動が起きていました。

幸いボルソンではそれは遠い世界の出来事でニュースで見るだけでしたが、私はいつも、このデモのあり方は間違っていると思っていました。

一番迷惑するのは何の罪もない市民だし、関係のない個人商店が略奪にあっていました。

要求があるのなら、直接本人に行動するべきと言ったら、いかに社会に迷惑をかけ話題になるかが重要だから、市民を巻き込むのが一番効果的だと言われました。

略奪、破壊、迷惑など必要悪を認めていました。

それは今でも納得いきませんが、デモ自体は今の世界の中では必要だと思っています。

 

さて先日参加したデモは、私の住む地区の水源地を含む広大な自然林を20年前に買い取ったイギリス人の大金持ちが、飛行場、デパート付きのカントリーと呼ばれる特別階級の高級住宅地を作ろうとしていることに関しての反対デモでした。

以前からその話はあって、その度に反対デモがあって計画は延期になっていました。

でも今回はかなり現実味を持って再浮上したのです。

救急車を寄贈したり、道路や水路、電線整備をしたり、賄賂を使ったりと様々な裏工作も進んでいました。ですから賛成住民が増えているのも事実です。

 

以前はデモがあったみたいだね、と言う感じでしたが、今回は何人もの友人、知り合いから署名やデモの案内が携帯に入ってきました。当日も「何時に街に行く?私も乗せて行って」と連絡があり、半ば流される様に参加しました。

 

ボルソンの町でこれだけ大規模のデモがあったのは初めてです。

メイン通りで大行進をし、市役所前で大騒ぎをました。でも車の迂回路を用意し、略奪も暴力もありませんでした。

面白かったのは、犬連れで参加している人が多かった事。

それぞれグループがあって、グループごとに踊ったり、歌ったりまるでカーニバルの様でした。

目立つの大好き、騒ぐの大好きの国民性がよく現れていました。

 

今回の行動でどれだけの効果があったかは分かりません。今は延期になっても、裏では確実に計画は進んでいくでしょう。

 

「正しい事」は個人で大きく異なります。それが人間社会です。これだけ人間が増えてしまって、色んな人間の価値が支配していて、地球はもうガタガタだと思います。

そして私も確実にその人間の一人です。

 

自然に学ぼう、自然に還ろうと言うのは、もう不可能な事の様に思います。

なる様になれば良いさと思う事もあります。

でもその度に、「僕は絶対諦めない。だから君も諦めないで」と叫んだ環境活動家の声が心に響きます。

 

私には進んで行動する勇気がありません。自分の主張を声に出す勇気もありません。

でも諦めず、流されず、この私のいる小さな場所で、自然や動物たちから学び続けたいと思っています。

 

 

 

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人が集まり始めています

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踊って叫んで大騒ぎ

 

パタゴニアの女子会

今日は風は強いですが暖かく、薪ストーブをつけていません。ただ老猫「福」には肌寒いようなので、16:00にはストーブをつけてあげようと思います。

来週の21日は春の日。瞬く間に月日が流れていきます。

 

週2回エルボルソンの町に行きますが、この時期は行く度に景色が大きく変わっています。

今は梅の花が満開です。

この木は町のメイン通りの中央分離帯に植えられていて、街を彩っています。

中央分離帯は広く、色んな木や花が植えられています。

今は梅の花。もう少ししたらチューリップ。夏にはルピナスや薔薇が咲きます。

草もこまめに刈っています。

夏はこの中央分離帯に人が寝そべり、マテ茶や地ビールを飲んだり、サンドイッチやエンパナーダなどを頰ばっています。

日本人の感覚からしたら、町の中心のこんな車の多い場所で飲み食いしたり、昼寝をしたりする事に抵抗を感じますが、こちらでは最高に落ち着く場所の様です。

特定の飼い主は居ないけれど、地域の人が餌をあげている地域犬達も、のんびりと昼寝を楽しんでいます。

 

日本語教室を閉鎖してから2年半になります。今のご時世、いろんな制約があって、もう教室を開催する気はなくなりましたが、日本語の先生をする、人と接すると言うことが、自分でも意外なほど楽しくやり甲斐のあるものでした。ですから今は条件の合う範囲で家庭教師を引き受けています。十代の子供の親御さんからの問い合わせがほとんどですが、半年前、同年代の女性から連絡がありました。ブエノスから国内移住してきた人で、日本語ではなくて、習字をしたいと言う希望でした。

私は別に書道の資格を持っているわけではありません。私の時代には(今でもあるんでしょうか?)義務教育で習字の時間が週一回ありました。また小学生の時は習字教室がブームで御多分に洩れず私も通っていました。ただそれだけ。賞を貰ったこともないし、習字は嫌いじゃないけど、夢中になることもありませんでした。

だから指導できることなんて何もないですと正直に話したのですが、ブエノスで6年間習字教室に通っていて、どうしても続けたいから教えて欲しいと頼み込まれました。

責任感のある人ならきっぱりとお断りするのかもしれませんが、勢いに飲まれやすく、何とかなるかな、と深く考えない、いい加減な私は、私にできる範囲で…とお断りして始めました。

唯一の利点は、日本の習字道具と、数年前ブエノスの日本人移住の大先輩から譲っていただいた習字のテキストを持っている事でした。

6年やってきただけあって、自分の筆も硯も墨も持っていて、基本的な筆使いも出来ていました。と言うか、私よりもずっと深く書道を理解していました。

習字をする時間を共有して楽しんでいましたが、彼女、ガビイが仏教に関心があり、般若心経を日本語で唱えられると知りました。

それならと、写経をする事を勧めてみました。私も般若心経をお唱えしたり写経をする事で、心を落ち着ける方法を学びました。悟りを開くとか、ぶれない心を持つには程遠いですが、「嫌だ、悔しい、羨ましい、妬ましい」と思う気持ちより、「嬉しい、有難い、幸せだ」と感謝することの方がずっとずっと多くなりました。

そうして毎回少しづつ写経を始めました。途中からガビイの友人スサーナも教室に参加しました。彼女は習字も漢字も初めてなので、筆の持ち方から始めましたが、とめ、跳ね、はらいなどの基本的な練習を根気よく3ヶ月続け、いまはテキストの最初にあった漢字「大地」を繰り返し練習しています。

ガビイもスサーナも同世代で、週一回ガビイの家で習字教室をし、月一回習字の後に持ち寄りで一緒に食事をしています。

人付き合いが苦手で一人でいる方が好きだったのに、お付き合いで仕方なくではなく、本当楽しんで友人と過ごしている自分に驚いています。

こう言うのを「女子会」って言うのかな?そんな言葉もう古いのかな?

人や動物は、周りの環境や一緒にいる人で、自分に自信を持ち、自分を好きになり、周りを思いやる気持ちが大きく育つのだと実感しています。それは年齢に全然関係なく、いくつになっても育っていくものだと思います。

この歳になっても育ててもらっている私です。でも私でもきっと誰かの心が育つきっかけになることが出来ると信じています。

歳を取るのはしんどい事もあるけれど、面白いことの方がずっと多いと感じています。

 

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教室の様子

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町の春

 

もうすぐ春だよ

暦の上ではまだ冬ですが、暖冬も手伝って、すっかり春の気配です。

木に囲まれた我が農場でも、陽だまりの水仙が花開きました。新記録です。

せっかく積もった山の雪も溶けてしまい、また水不足の心配です。

日中はストーブなしでも良いのですが、来月20歳を迎える猫の福には寒いようで、まだまだ火を消せません。

ほんの数ヶ月前までは、朝私の目覚ましがなると「にゃーにゃー」鳴いて朝ごはんを催促し続けていましたが、今は、私が起き出してストーブの火をつけても丸まって寝ていることが多くなりました。

子供の頃から動物が好きで、いつも白黒で名前もニャン吉という猫を飼っていましたが皆んな早死にでした。母に「あんたが寅年だから、猫を食い殺しているんだ」と、今考えると信じられないような酷い事を言われていましたが、その時は、(そうか、私の所為なんだ。仕方ないか。)と落ち込むこともありませんでした。

ですから福が20歳を迎える事を、心から祝福し感謝したいです。

虎の私に負けないくらい意志の強い猫です。

来る人に「この子来月20歳だよ。」と言うと、誰もが福の色艶の良さに驚きます。歯もほとんど残っています。最近痩せてきて、耳も遠くなってきたけれど、おばあちゃんなんてとても呼べません。

福は私の目標です。私も福のように歳をとりたいです。

 

でも福がどんなに綺麗でもこの先何年も私のそばにいてくれる訳ではありません。そう思うと時々やりきれないほど寂しくなります。

でも覚悟なんてできないし、する必要もないので、今一緒にいる事を大切にしていくだけだと思っています。

 

これからの季節、どんどん緑が濃くなり花が咲いていきます。

街には我が家では寒くて育たない木や花があります。週2回街に行くと春の訪れの早さに目を見張ります。

今はアロモという木の黄色い花が咲いています。この花が大好きです。とても甘い香りがするのです。アロモは私にとっては春の使者です。

日本の春の桜も好きですが、パタゴニアのアロモも大好きです。

私はいつも、なんて素敵な場所に暮らしているんだろう。なんて素敵な人や動物たちに出会えたんだろうと心が膨らみます。

世界には本当に美しい場所が沢山あります。私が知らないだけです。でも比べる必要なんかないので、今生きているこの時、この場所をいつまでも大好きでい続けようと思います。

 

 

 

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アロモの花

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ストーブの前の福

 

落ち込んだけど、復活するぞ!

待望の雨が降りました。

ザアザアと降り続く冬の雨には程遠かったですが、それでも薄っすらとですが山に雪が積もりました。誰もが待ち望んでいた雨でした。

天気予報を見ると、明日から来週半ばまで雨の予報です。当たらないと有名な天気予報ですが、今回ばかりは皆の「雨よ降れ」の大きな望みと希望が集まっているので、きっと降るでしょう。

 

もう8月も終わります。乾燥具合にもよりますが、9月半ばから野外の焚き火が禁止になります。焚き火といっても、こちらでは木を切ったり、選定したりした枝を燃やす事です。薪にしない枝や灌木は林にそのまま残しておくと、夏に山火事の原因になるからと冬に間に燃やすように指導されます。

ですから今、山の中腹からのろしの様な煙があちこちから立ち昇っています。

ああ、あんな上の方まで人が入り込んで林や森を切り開いているんだ…と、その煙を見るたび私は悲しくなります。

去年、大規模な山火事が広範囲で起こり、その火が町まで迫って200件近くが焼け出されました。ですから火事が広がらない様に、消化活動がしやすい様にと、木を切り何もない空間を広げています。それに人口増加の拍車がかかって、どんどん木が切られています。

我が家でも広い土地を所有していた隣人が、所有地を小さく切り売りして、隣接する新しい住人が7軒も増えました。新しい隣人は、動物や人が勝手に入らない様に自分の土地の周りをフェンスでがっちり囲います。そして今まで自然林だったところを切り開き、畑やビニールハウスを作ります。無造作に木が生えていると火事の時延焼が早いとか、消火活動の妨げになるというのが理由です。それは市の方針でもあります。

ですから隣人が増えた分、我が家も隣接している場所は林の整理を余儀無くされました。

人を頼んで整理をしてもらいましたが、下枝を切って整理するのではなく、見事に柵から5メートルは木を切られました。

切る人はチェーンソーでぶった切りしていきます。木への敬意も何も感じられません。

その風景を見た夜、私は眠れませんでした。木達に申し訳なくて苦しかったです。

人間が増えるとろくなことがありません。でも私も間違いなくその人間の一人なのです。

 

屠殺場の近くに住んでいる人が、殺される牛の声が聞こえて嫌だ、と言った時、「えっ!牛って殺される時鳴くの?」と心底驚ろいた人がいました。

私は牛の気持ちがわからないその人に心底驚きました。

同じ哺乳動物の気持ちがわからないのだから、木を伐採する時、木の痛みを想像することなんて出来ないでしょう。

 

今、切られた木を運び、薪にしています。太い幹は私では無理なので、チェーンソーで切ってもらうことになります。でも私が切れる太さの木は、「ありがとう。ごめんなさい」と声をかけながら、のこぎりで時間をかけて切っていきます。

人を批判したり粗探しをしたり、落ち込んだり絶望したり、その場から逃げても、自分が苦しいだけで何も変わりません。だから私は私なりに今を生きて、今と向き合って、良いことや楽しいことを見つけ、笑って進んで行こうと思います。

そういう気持ちになれるものが、ここにはあるからです。

 

 

 

 

 

 

 

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街からの風景

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悟りのドアップ。(関係ないですけど)

 

心で見ること

あっという間に8月も一週間が過ぎました。

相変わらず雨が降らず、山には雪がありません。朝夜は気温がグッと下がりマイナス2度3度、時にはマイナス5度以下にもなりますが、日中は眩しい青空に、太陽がサンサンと輝き朝と同じ服で作業すると、ほんのりと汗ばんでしまいます。

暖冬は今までもありましたが、こんなに乾燥して暖かい冬は初めての気がします。

ギリシャアメリカ合衆国では猛暑で山火事が広がっていますが、この夏アルゼンチンでも同じ事にならない様に祈るだけです。

 

昨年コロナが始まった時、一時、豆腐や味噌の卸も日本語教室も中止にしていました。3ヶ月ほどで、お店の希望もあり豆腐味噌の卸は再開しましたが、日本語教室は閉鎖にしました。

でも3年ほど教えていた女の子は休止していた時期も、時々日本語でメールを送ってくれていました。私も彼女のメールを添削してあげたり、簡単な日本語で返事を書いたりしていました。

ある夏の日、「お母さんが犬を持ちました。名前はアヌクです。」という文面と子犬の写真が添付されてきました。

「お母さんが子犬をもらってきたの?ひょっとしてアルゼンチンドゴ?」

「はい。お利口です。」

 

おおおお~!恐怖?のアルゼンチンドゴ。

 

日本には柴や秋田犬などの和犬がいますが、アルゼンチンにはアルゼンチンドゴというアルゼンチン原産の狩猟、闘犬がいます。

平均体重が40~45キロ、体高が60~68cmと大型犬です。でも実際に見たことはありませんでした。飼い主でも必ず一回は噛まれるとか、プライドが高く攻撃的とか聞いていて、恐いイメージしかありませんんでした。実は私、犬は大好きですが反面とても怖いのです。アルゼンチンドゴなんて見たら、絶対近寄らず逃げます。

「かわいいね。」でその時は終わりました。

 

ところがコロナの規制が緩み、割と自由になった頃、彼女が日本語の勉強を再開したいと言ってきました。町の郊外で豆腐の卸の後、通える場所に住んでいます。

日本語も日本も大好きな子で、その気持ちを大切にしてあげたいと思い家庭教師を引き受けました。

家に着くとワオワオすごい吠え声が聞こえます。ああそうだ…。ドゴが居たんだ。もう子犬じゃないよなあ…。

彼女はお母さんと2人暮らしで、お母さんは昼過ぎまで仕事で帰ってきません。

彼女だけで大丈夫かな?こわごわ車を降りると、太い紐につながれた吠えまくる大きな犬を、彼女が抑えています。今のうちだと急いで家に入りました。

 

女の2人暮らしなら、あのくらいの犬を飼っておく方が安心だけど、大変だろうなと思いました。

 

ところが、何回も通ううち、このドゴがとっても怖がりで甘えん坊でかわいい子だと分かりました。寒い日は家の中で一緒にいます。

話を聞くと、子犬の頃飼い主に虐待されていたのを保護された子だとか。純血のドゴでは無いけれど、見た目は迫力満点です。

アヌクに会うたび、今は亡き姫ちゃんを思い出し胸がキュンキュン痛みます。

姫もシェパードの血が入った体の大きい子で、声も太くよく吠えたので、周りからは悪い犬だ。危険な犬だ。と言われていました。でのそのお陰で我が家に知らない人がやって来ることがなく、最高の番犬でした。本当はとても子供好きで甘えん坊で気の小さい優しい子でした。

自分は悪者になって嫌われ者になって、そうして私を守ってくれていました。

 

アヌクに会うたび思います。

私はいつも偏見や先入観を持って、大切な事、物の本質を見逃しているんだと。

星の王子様で狐が言った言葉。

「大切なことは目では見えないよ。心で見ないとね。」

 

大好きな言葉です。いつも噛み締めています。でも私の心はまだまだ曇っています。

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ちゃんとソファーに座ってます

 

いただきますに続く未来

今年はとても豊かな秋でした。

エルボルソン地区でも特に気候条件が厳しい我が家ですら、りんごもプラムもさくらんぼも大豊作でした。ですから標高がここより低く暖かい町では、果実だけでなく、くるみや栗などの木の実も大豊作でした。

ところがコロナの影響で観光客が激減し、生果もジャムなどの加工品もあまり売れませんでした。どこもかしこも大豊作なので、町の住人も殆ど買いません。私も頼まれて、味噌をくるみや栗、かりんと物々交換し、乾燥やジャムなどに加工できるものはしました。

我が家もそうですが、取りきれなかったものは自然界の動物たちの食料となったり、土に還っていくのでゴミになるわけではありません。

それでもやっぱり不作の年を思い出し、落ちている実を見て勿体無いな、なんて感じてしまいました。

それは結構みんな同じの様で、先日町に住む知人から「栗が余っているからあげる」と言われました。栗は皮が固く渋皮もあって、美味しいのですが食べるまでに多少手間がかかります。くるみの様に殻ごとの長期保存も出来ません。

今までは余っても安く売ったり、何かと交換していた人なので、「あげる」の中に勿体無いから食べてというニュアンスがあって正直驚きました。

早速袋いっぱい頂いてきました。そして家で袋を開けてみると、底の方にあった栗が発芽していたのです。

当たり前のことなのですが、改めて生きているんだと実感しました。

自然界の全ての命は、人間のために存在するわけではないのです。

果実や木の実を美味しいと食べているけれど、彼らはその代わりに種を運んで蒔いてもらい、そこから発芽して成長して、また実を結んで行くのです。命を繋いで行くのです。

人工のビニール袋の中で窮屈な思いをしながらも、根を出していた栗を愛おしいと思いました。

25年前に蒔いた栗がやっと私の身長を超えた、栗にとっては厳しい気候の我が家。

それでも私は根を伸ばした栗たちを植えました。

以前は周りを囲い畑にしていたけれど水やりが難しくなり、囲われているので掘り返されたり踏まれることも無いだろうと、亡くなった犬と猫のお墓にしていた場所に埋めました。

この栗たちが実を結ぶのをこの目で見ることは出来ないけれど「ここで生きてきたんだ。楽しかった。」という私の思いは栗たちが受け取ってくれた気がします。

 

今までは日本語の生徒さんや、アニメ好きの子供たちに、「ありがとう」を最初に教えていました。(知っている人が殆どでしたが)

でもこれからは「いただきます」を教えます。

それは食事前の単なる挨拶ではなく、「あなたの命をいただきます。きちんと引き継いでいきます。」という感謝の言葉だという事も。

 

人の粗探しをしたり、不平不満を言ったり、絶望して自暴自棄になったりする事は簡単です。でもその中から、希望を見つけ、感謝し、周りに優しくなる事こそ大切なことだと思います。

今は出来なくても、この世界を卒業するまでに、そうできる様に進んで行きたいと感じています。

 

 

 

 

 

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大きくなーれ