時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

いただきますに続く未来

今年はとても豊かな秋でした。

エルボルソン地区でも特に気候条件が厳しい我が家ですら、りんごもプラムもさくらんぼも大豊作でした。ですから標高がここより低く暖かい町では、果実だけでなく、くるみや栗などの木の実も大豊作でした。

ところがコロナの影響で観光客が激減し、生果もジャムなどの加工品もあまり売れませんでした。どこもかしこも大豊作なので、町の住人も殆ど買いません。私も頼まれて、味噌をくるみや栗、かりんと物々交換し、乾燥やジャムなどに加工できるものはしました。

我が家もそうですが、取りきれなかったものは自然界の動物たちの食料となったり、土に還っていくのでゴミになるわけではありません。

それでもやっぱり不作の年を思い出し、落ちている実を見て勿体無いな、なんて感じてしまいました。

それは結構みんな同じの様で、先日町に住む知人から「栗が余っているからあげる」と言われました。栗は皮が固く渋皮もあって、美味しいのですが食べるまでに多少手間がかかります。くるみの様に殻ごとの長期保存も出来ません。

今までは余っても安く売ったり、何かと交換していた人なので、「あげる」の中に勿体無いから食べてというニュアンスがあって正直驚きました。

早速袋いっぱい頂いてきました。そして家で袋を開けてみると、底の方にあった栗が発芽していたのです。

当たり前のことなのですが、改めて生きているんだと実感しました。

自然界の全ての命は、人間のために存在するわけではないのです。

果実や木の実を美味しいと食べているけれど、彼らはその代わりに種を運んで蒔いてもらい、そこから発芽して成長して、また実を結んで行くのです。命を繋いで行くのです。

人工のビニール袋の中で窮屈な思いをしながらも、根を出していた栗を愛おしいと思いました。

25年前に蒔いた栗がやっと私の身長を超えた、栗にとっては厳しい気候の我が家。

それでも私は根を伸ばした栗たちを植えました。

以前は周りを囲い畑にしていたけれど水やりが難しくなり、囲われているので掘り返されたり踏まれることも無いだろうと、亡くなった犬と猫のお墓にしていた場所に埋めました。

この栗たちが実を結ぶのをこの目で見ることは出来ないけれど「ここで生きてきたんだ。楽しかった。」という私の思いは栗たちが受け取ってくれた気がします。

 

今までは日本語の生徒さんや、アニメ好きの子供たちに、「ありがとう」を最初に教えていました。(知っている人が殆どでしたが)

でもこれからは「いただきます」を教えます。

それは食事前の単なる挨拶ではなく、「あなたの命をいただきます。きちんと引き継いでいきます。」という感謝の言葉だという事も。

 

人の粗探しをしたり、不平不満を言ったり、絶望して自暴自棄になったりする事は簡単です。でもその中から、希望を見つけ、感謝し、周りに優しくなる事こそ大切なことだと思います。

今は出来なくても、この世界を卒業するまでに、そうできる様に進んで行きたいと感じています。

 

 

 

 

 

f:id:nojomallin:20210724013030j:plain

大きくなーれ