時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

木と向き合う

 

真夏の1月2月は日射しがきつく日中はとても外では働けません。直射日光の当たらない林の中でも、やはり暑さの為能率が下がります。ですから、真夏がやって来る前の今、猛烈に薪準備をしています。

林の中の立ち枯れの木をのこぎりで切り倒し、枝を払い、持ち運べる長さに切ります。

そしてそれを手で運び、薪小屋の近くでストーブに入る長さに切り、太いものは斧で割ります。そして薪小屋に積んでいきます。

我が家に来た人が驚くのは、薪がきちんと積み重なって保管されていることです。

他の所では長さも太さもまちまちの切り出した木を、そのままどんどん放り投げて積み上げています。そして必要な時に、切ったり割ったりしています。

私は若い頃よりずっと作業能力が落ちてきたし、冬の寒い時に野良仕事をする元気はありません。道具だって可哀想です。

ですから冬に使いやすいように、今手間を少しかけています。

崩れないように工夫して、時間帯によって使う薪の大きさが違うので、そういう事を考えながら薪を積んでいく作業は、地味ですが私の好きな仕事です。時々、頭を使わないで済む緑の労働、何て言う人がいますが、田舎暮らしは頭を使わなければ続かない生活だと思うのです。

(でも私がまだ田舎暮らしを出来ているので、やっぱりあんまり頭は使わな来て良いのか?とも思っちゃいますが。)

私がチェーンソーを使わないのは、重すぎて使えないこともありますが、危険でうるさく、燃料がかかり、力で木を削って切るので無駄が多いからです。そして何より木に対して失礼だと思うからです。

のこぎりで時間をかけて切ることで、木に向き合い、対話し感謝したいからです。でもこの感覚はこちらではなかなか理解してもらえません。

スペイン語のLa vida は 生活という意味ですが、私が命ってどういうの?と日本語のわかるアルゼンチン人に聞いたらla vida と言われました。そして命も生活も同じ事じゃないと不思議な顔をされました。

こういう時に、感覚の違いを感じます。私は生きることと生活することは同じようで少し違う気がするのです。

 

けれども命に対してとても繊細な人が増えているのも事実です。

ベジタリアン(菜食主義者)はごく当たり前ですが、動物から搾取する卵も乳製品も、はちみつさえ口にしない人が増えています。私自身も動物性たんぱく質は食べません。食べても幸せを感じないし、美味しいとは思えないからですが、最大の理由は持病の悪化を防ぐためです。

ベジタリアンの中には考えが極端すぎるなと感じる人もいますが、肉食の国アルゼンチンで菜食主義を貫いているのは凄いなあとも感心もしています。

 

今日は久しぶりに小雨が降っています。

勢いがないのでお湿りにもならないかもしれませんが、12月に既にカラカラの旱魃が始まっていたので、気持ちはホッとします。

先週、落雷が原因で起こった複数箇所でのチリの山火事が、少しでも治ることを願います。

 

ローズヒップの花があちこちで咲いています。

さくらんぼが赤く色付き始めました。あまりにも大木なので収穫が難しく、実は木から鳥たちへのクリスマスプレゼントです。

半野生化したバラが茂みの中で香っています。

ラベンダーの蕾もほんのり紫になっています。

 

夢のように時間が流れていきます。

若い頃は終わりを意識することもなかったけど、今は残りの時間の一瞬一瞬がとても貴重に感じます。

ここに居られて幸せです。

 

 

 

 

 

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積んだ薪

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ローズヒップの花