時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

「誰の為でも無く豊かに実る果実達」

何度も書きましたが、今秋、我が家の果樹には殆ど実りがありませんでした。これはきっと他の場所でも同じだろうと思っていたのですが、エルボルソンやもっと標高が低く温暖な地区では例年にない豊作だったとか。
先日我が家から30kmほど離れた友人の農場へ遊びに行きました。彼女の農場は朝早くから一日中サンサンと太陽が降り注ぎ、霜も殆ど下りず特に温 暖な地区です。果樹やクルミの木も驚くほど大きく、セージやローズマリーなどのハーブ類も、制御するのが大変なくらい茂っています。此処へ来るた び、我が家の地形や気候の厳しさを感じずにはいられません。それだから余計、我が農場の植物たちがいじらしく愛おしいのですが。
さてその友人から「段ボール箱持って遊びに来て」とお誘いがありました。
これはリンゴや洋梨の収穫に来てと言う意味です。今年はジャムもジュースも作れなかったので、やった〜!と喜んで晴れた土曜日に行って来ました。
そして彼女の農場について車を降りた途端、むせ返る様な果実の香りの出迎えを受けました。
彼女たちがその農場を買ったのが15年ほど前。その時にはすでにりんご、洋梨、桃、かりん、プラムの木はかなり大きかったと言います。自家用に前 の住人が植え、品種の違う果樹が育っています。
果樹の太さ、大きさは見事と言う以外言葉が見つかりません。果樹はこんなにも大木になるんだと思い知らされます。肥料も消毒もしていないけれど、 実は大きく奇麗で、もちろん選定もしていませんから殆どの実に手が届かず収穫できません。でも手の届く所だけでも、とても採りきれるものじゃあり ません。風で落ちた実が大地に転がって絨毯の様です。
何と贅沢な景色でしょうか。
店で高い果物を買っている人たちが見たら、どう思うでしょう。
彼女も勿体無くて、友人知人に声をかけ収穫に来て貰らい「来てくれてありがとう」とお礼を言っているのです。今年は自分たちで収穫した果実を箱に 詰め「ご自由にどうぞ」と外に出しても居ます。
町に住む人や都会から来た人などは、羨ましくて拾いたいと思うでしょうが、そこがアルゼンチンの悲しさ。
どんなに外見が優しそうでも、信用できそうでも、治安面から知らない人は絶対に敷地に入れる事は出来ません。
また収穫に人を雇い、店に卸す事も先ず第一に信頼出来る人を見付けることが難しく、例え見つけても雇用許可を持たなければ訴えられて天文学的な罰 金が科せられます。雇用許可も取得するのが面倒でしかもお金がかかるのです。豊かであればある程、正直であればある程気苦労が絶えません。本当に おかしなそして悲しい国だと思います。
どケチな私は「勿体無い」「ありがたい」と考えもせず車一杯にリンゴ、桃、洋梨を収穫して来ました。
そして今、一斉に熟し始めた桃と洋梨を前に半分途方に暮れています。ジャムもジュースも作りましたが、砂糖代、保存瓶代もばかにならず、全てを保 存する事が出来ません。我が家の犬たちも毎日果実たっぷりのご飯を食べています。私も生では食べる限界があるので、ケーキに入れたり、焼いたり煮 たりして生涯でこんなにも果実を食べた事が無いくらい食べています。
私は人間の悲しさ、いやしさから「勿体無い」と全てを利用しようと思ってしまいますが、考えてみれば、果樹はそんなこと微塵も思っていないでしょ う。誰の為でも無く、自然の摂理にのっとって、自然のまま素直に生きて実を結んでいるだけです。
果実を感謝して頂く、それはきっと自然の営みの仲間に加えてもらえたという事。「勿体無い」ではなく、「有難う」と感謝するべき事です。
もうすぐ彼女から「かりんとくるみが採り頃だよ。」と第二便が届くでしょう。