時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

チューリップの教えてくれた事

今年の春は遅くて寒いと思っていたら、10月半ばから一気に夏のような気候に変わりました。

まだ朝夜は0度近くまで気温が下がりますが、日中は20℃近くまで上がり、数字的には快適な気温ですが、直射日光の下では湿気がないのでジリジリと焼けるように暑いです。

雨も降らなくなり、村の周遊道では車が走ると、もうもうと土煙が舞い上がります。

毎年、水仙とボケの花が咲くと春の到来を感じ、それからすもも、さくらんぼの花が咲き、タンポポのかわいい花がそこら中で目立ち始め、チューリップの後リンゴの薄紅の蕾が開き、淡い白い花が咲きます。

ところが今年は、多少早い遅いはありますが、殆ど一気にいろんな花が咲き、農場が賑やかに彩っています。

 

何年も前に畑にしていた場所がありました。

体力的に維持が難しくなってずっと放置していました。倒れた柵にホップの蔓が巻き付き、草が生い茂り、秩序ない小さなジャングルのようでした。

今年、仲間がその倒れた柵を新しい畑に再利用してくれました。ごちゃごちゃしていた畑が、柵がなくなったことで、ほんの少し開けた明るい場所に変わりました。そうしたら、今までは草に埋もれてほとんど目立たなかった、チューリップがググンと大きくなったのです。そして大きな花をいくつも咲かせてくれました。

自然って正直だなと感心しました。「ここは畑。柵で仕切る。」それは私が自分勝手に引いた境界線です。そんな柵の中ではチューリップ達はきっとのびのび育つことが出来なかったのです。

そして思いました。人はこの世界の中心だと勘違いしていて、あらゆる所、あらゆる物に境界線を引きました。それは国境だったり、宗教だったり、人種だったり。

私だってここは私の土地って力んで来たけれど、私の土地じゃなくて、私が生きる事を許して受け入れてくれた場所なだけです。

そう思うと今までイライラしたり、気に入らなかったりしたことが、自分の勝手な思い込み、狭い視野での判断だったと気がつきました。

そうは言っても、私はまだ、自分で作った柵の中でイライラしたり悶々としたりしています。自分を好きになれたけど、自己嫌悪することも度々あります。

そう言うこと全てを受け入れて、自分を認めて、無理しないように少しずつ柵を取り払って、このチューリップ達のように、いつか空に向かって大きく葉を広げ、花を咲かせようと思います。

 

ばーちゃん花なんて見たくないって?

いえいえ天真爛漫な若々しさはなくても、熟成された美しさはあるはずですよ!それを目指します!

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元気に走り回るちびっ子ギャング達

 

私の見続けているもの

10月も1週間を過ぎました。

日中ストーブを焚かない日が多くなりました。ただ老猫「福」にとっては辛い事だと思うので、湯たんぽを温めて寝床に置いてみました。最初は警戒してか近寄りませんでしたが、今では湯たんぽの上に丸くなって寝ています。

 

気がつくと我が家でもさくらんぼの花が咲き始めていました。

アニメの影響でみんな「桜」は知っていますが、さくらんぼの花だと思っている人がほとんどでした。

町の八重桜も蕾が膨らみ始めているのでしょうか?町に行った時、見にいこうと思います。

郵便局の隣の空き地に八重桜と楓が植わっていて、春には桜、秋には紅葉を楽しませてくれます。この木は30年以上前にエルボルソンに住んでいたアルゼンチン男性と日本人女性のご夫婦が植えたそうです。私がここに来た時にはもうお二人とも引っ越していませんでしたが、ブエノスアイレスの日本庭園で焼き物展示会をした時、そこで働いていた娘さんにお世話になり、嬉しい縁を感じました。

我が家にも、日本の種から育った「秋田杉」が何本も育っています。この木はブエノスアイレスの方が育てていたものです。その方の夢がパタゴニアに秋田杉を植えることでした。今大きく育つ秋田杉を見ながら、例えわたしがこの世界から居なくなっても、この農場を引き継いで愛してくれる人を、秋田杉達が呼び寄せてくれると思っています。

 

さて今回はサウナのご報告。

うふふふ…

先日入りましたよ。

実は1ヶ月近く前にすでに完成していました。でも1人では、なんだか勿体無い気がしたし、気分的に落ち着く露天風呂を何時も沸かしていました。しっかり試していないので、人を招待することもできずにいました。そんな時、サウナを最初に招待してくれたクララが「一緒に試してみよう」と言ってくれて、土曜日に本格的に沸かしてみました。

最初に室内のストーブを2時間ガンガン焚いて、それから外のドラム缶に入れた水を沸かして室内に水蒸気を送り込みました。

思った以上に水蒸気が出るのに時間がかかり、薪もこまめに足さなければいけないことが分かりました。ですから今回は温熱サウナになりましたが、いやあ~!気分爽快。

汗びっしょりになり、出たり入ったりを繰り返し、身体中ほかほか、お肌つるつるでした。

こんなに気軽に本格的サウナを楽しめるなんて、幸せいっぱいでした。

次回はお湯に薬草を入れたり、室内に香り用の薪を置いたりしてみようと思います。

そしてサウナの日を決めて、誰でも気軽に利用できるようにしたいなあと夢が膨らみました。

 

今年の小さな夢、目標が一つ叶いました。次は穴窯焚きを興味のある人たちとしたいですし、日本文化紹介を兼ねて餅つき大会、試食会もしたいです。

耕さない畑の実践や、人も自然の一部とここの生活を楽しめる人達が気軽に滞在できる宿泊施設を作りたいです。

近代設備のある病院が無くても、最先端治療を受けなくても、自然治癒力で難病と上手に楽しく付き合えることも示したいです。

何よりも、今この世界で生きているって、こんなにも幸せで豊かなことなんだと感じて欲しいです。

 

何年かかっても、今の人生で実践できなくても、上手くいかないことがあっても、夢に向かって進んでいく過程を楽しんでいこうと思います。

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サウナ内部

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街の早春の景色

 

パタゴニアの田舎で生きる価値

9月21日はアルゼンチンでは「春の日」です。この日は「春の日おめでとう」と挨拶したり、親しい人に花を送ったりします。

まだまだ朝夜はストーブが欠かせませんが、農場の陽だまりでは水仙の花が咲き、玄関前のボケの花も蕾が日に日に膨らんでいます。

 

家族が増えました。

友人が「友達の所で子犬が9匹生まれたの」と、写真を見せてくれました。

小さな命達。

家にはフィナがいるけれど、もう一度沢山の犬達と過ごしたいと強く思いました。

それで「もし子犬の里親が決まらなかったら、男の子と女の子、兄妹で引き取りたい」と話しました。

 

それから1ヶ月後、我が家に新しい家族がやってきました。

男の子を「大将」女の子を「悟り」と名付けました。

 

亡くしてしまった「心」の事があるので、健康診断のため直ぐに町の獣医に連れて行き、寄生虫駆除の薬を3日間飲ませるように指導されました。

一回目を飲ませたその夜。

元気一杯だった大将が嘔吐を繰り返し、ぐったりとしてしまいました。何も食べず、起き上がらず、胃液ばかりを吐きました。そして元気だった悟りまで、4日後から具合悪そうに寝たきりになってしまいました。

 

「熱や嘔吐は体の中で病気と闘っている証拠だから、薬や注射で対処療法はしないほうがいい」と様子を見守っていましたが、悟りまで寝込んでしまったので不安になり、5日後獣医さんに診て貰いに行きました。

また幼い命を奪ってしまうのかと涙が出ました。

 

獣医さんは「女の子は風邪で熱があるけど大丈夫。男の子は痛み止めの注射だけ打つね」と言って、私に「この子達は何を食べていたの?」と聞きました。

「ちゃんと子犬用のドッグフードを買ってきて1日3回少しずつあげていました」

「まだ小さいんだから、ドックフードは強すぎるよ。骨のない鶏肉とかぼちゃとお米を煮て少しずつ1日4回あげなさい」

 

その時、頭をがーんと殴られた気がしました。

今まで「子供にインスタントなんて食べさせたらダメだよ。大変でもちゃんと作ってあげなきゃあ!」と偉そうに若いお母さんに言っていた私が、自分では市販のドックフードは栄養がある、と当たり前のようにあげていたのです。自分が情けなくて恥ずかしさで一杯になりました。

そして鶏肉とかぼちゃを買って行って、その夜、お米と一緒に煮ておかゆを作りました。

まだ食べられないだろうけど…と思いましたが、少しお皿に入れて子犬達の側に置いて見ました。

すると寝たきりだった大将と悟りが起き上がり、少し口にしたのです。奇跡のようでした。

そして翌日からはメキメキ元気になり、食欲も出てきました。でもこれは奇跡じゃなく、当たり前の事だったのです。

 

失わずに済んだ。

また助けて貰った。

大切な事を教えてもらった。

 

これをきっかけに多くのことを考えました。

折角携帯の電波も届かない夢のような素敵な場所に住んでいるのに、一年前に300m電線を引いて、wifiをつけました。便利になったと喜んで、一日中コンピュータの前にいた事もありました。でも私の持病が急に悪化したのも、まだ若かった黄金やテリーや心があっけなく逝ってしまったのも、姫が急に老けて逝ってしまったのも、もしかしたら電磁波の影響があったのかもしれないと思いました。

文明を否定する気は全くありません。便利な事は感謝して利用させて貰えば良いと思います。でも今の私に24時間ネットが使える環境が必要かと考えた時、答えは「必要なし」でした。

大袈裟とか、電磁波なんて影響ないという人もいます。人それぞれの価値観です。

私が何を選ぶか?どう進んでいくか?それだけなんだと思います。

今は朝と夜の1時間程度だけ接続して、後はコンセントを抜いています。私にはそれで充分有り難いです。

 

私がこの場所を守っているんじゃない。私がこの子達を育てているんじゃない。

私が守られ教えられ助けられているのです。そう思ったら、素直に自然から動物達からこれからの生き方を学びたいと思いました。

今ここに居られることを、支えてもらっていることを、生きていることを、心から感謝しています。

 

 

 

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大御所福おばちゃんと

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ちょっと出掛けてかえってきたらこの有様。ちびっ子ギャングの仕業です

 

幸せほかほか

きっかけは小さな事でした。

豆腐や味噌を買いに来てくれて仲良くなった新しい隣人ニカと、誕生日の話になりました。

時は8月の末。私の誕生日の10日ほど前でした。

アルゼンチンでは大人になっても誕生日というのは重要で、必ずと言っていいほど誕生日パーティーをします。私の知り合いの弁護士さんは、人脈も広く、毎週誰かの誕生日パーティーに行っています。

私はそう言うのが苦手でそれをみんなも分かってくれたし、子供はいないので子供がらみのパーティーは関係ないし、経済危機以来、大きなパーティーはせず、家族でお祝いする人も増えていて、最近では誕生日パーティーに呼ばれなくなって正直ほっとしていました。

それに「日本では子供の誕生日パーティはしても、大人はしないよ」と半世紀前の私の子供時代の習慣を持ち出して、その話題から逃げていました。

 

ところが今回は彼女の親友で、私も会った事のあるナリーが同じ日だったのです。

その時は「すごい偶然だね。面白いね。」で話は終わりましたが、2日後、信じられない事に、生活時間帯が違うので車ですれ違った事なんかなかった友人夫婦と狭い道ですれ違い、あいさつのため窓を開けると、ナリーが後部座席に乗っていたのです。

トキコ、私達同じ日に生まれたんだね」

開口一番彼女が言いました。

「年は一回り違うけどね。偶然だね」

そんな会話を友人夫婦は黙って聞いていました。

 

そして誕生日2日前、一通のメールが届きました。

「月曜日の夕食を招待します。ナリーも来ます。一緒に誕生日をお祝いしましょう。」

 

思いもかけない招待に嬉しくてドキドキしました。

 

突然の事でケーキの材料もなかったし、料理上手な彼女に私のいい加減ケーキを作っていくのも恥ずかしく、町でワインとチョコレートとケーキ屋さんでブラウニーを買って持って行きました。

 

行くと、ニカとナリーの他にも共通の友人が集まっていて、総勢9人でこじんまりと、でも優しく温かく誕生日をお祝いしてくれました。

(因みに、私の住むマジン地区ではコロナは別世界の出来事です。勿論感染者もいません。)

 

子供の頃は母がケーキを買ってきてくれ、プレゼントをもらっていましたが、友達を呼んで誕生会なんてした事ありませんでした(そう言えば学校で禁止されていました)。

 

ナリーが「願いを三つして吹き消すんだよ」と、ろうそくを吹き消しました。

私も私のためにニカが手作りしてくれた可愛いハートのケーキに立てたろうそくを、願い事を三つして吹き消しました。

 

私の願いは皆んなが健康で幸せで平和に過ごす事。

 

招待してもらうだけじゃ申し訳ないと、小さなプレゼントを何個か用意し、あみだくじをして同じ番号のプレゼントを受け取ってもらうと言うゲームを用意していきました。

あみだくじは日本語教室でやった時、みんなに大受けしたゲーム?でした。

今回も外れる事はなく大いに盛り上がり、面白がって、決して他の人と重ならないことを不思議がって、お箸とか、コマとか、靴下とか日本から買ってきた他愛もない小さなプレゼントを、大喜びしてくれました。

 

友達を作るのが下手で、主役になることも、中心になることもできない性格で、会話も弾まず、頭の回転も鈍く、機転も効かない自分に、一時は自己嫌悪がいっぱいでしたが、今は、「それが私。なかなか素敵じゃない。」と思う事ができます。

 

忘れられない誕生日になりました。

年を重ねるって、良いことに一杯出会うことなんだな。と実感しました。

 

与えてもらうだけ、受け取るだけの私ですが、これからはこのはち切れそうな豊かな思いを、少しづつ少しづつ、誰かに、どこかに、何かに手渡していきたいなと思っています。

 

来週晴れた日に、一気に畑の準備をしようと思っています。

快晴の日、猫柳の木の近くでワンワン羽音がするので見上げたら、ミツバチ達が花粉を集めていました。

パタゴニアの春は近いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ココナツハートのケーキ

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ナリーと一緒に

 

パタゴニアの8月 私の8月

8月15日 日本ではお盆のこの日、朝から雪が降りました。ふわふわの大きな綿雪で、みるみる積もって周りを白い世界に変えていきました。

「綺麗だな」と「大雪になったら困るな」という気持が半々でした。昼過ぎには止みお日様が出てきたので、一先ずホッとしました。

真っ白に変わった世界を、私は犬のホセフィーナと歩きました。サクサク、サクサク、雪を踏むたびに足の下で弾む音。私とフィーナの足跡だけが残って行きます。

 

8月も半ばを過ぎたのに、寒い毎日です。ストーブを焚いても焚いても部屋が暖まらず、寒くてストーブの前にべっちゃりひっついている事もあります。

移住当初は8月20日が畑初めでした。この日に空豆とえんどう豆を畑にまいていました。ところが今は8月では地面が凍ってとても豆をまく気にはなれません。1ヶ月は春が遅くなっている気がします。

 

日曜日はアルゼンチンの子供の日でした。日本の様に柏餅を食べたり、鯉のぼりが空を泳いでいたり、そんな伝統的な事は何もありませんが、子供たちは大人からプレゼントをもらい、ホームパーティをした事でしょう。今年はみんなで集まることが出来ずにちょっと寂しい日になったかもしれません。

翌日はサンマルティン将軍の命日で祝日。連休でしたが、どこへも出かけることもできず、みんなそんな風に過ごしたのでしょう?

 

今年は山に雪がたっぷりあるのですが、スキー場に観光客はいません。アルゼンチンは今でも州を超えての移動には許可証が必要です。同じ州でも町から町の移動が簡単にできない場所もあります。国際観光地のバリローチェは同じ州ですが、許可なしには行けません。

町のレストランや喫茶店は閉店のままです。

 

昨日からアンデスの雪の峠を越えてくる冷たい風が吹き荒れています。これから1ヶ月は風の季節です。突風が吹くと家がギシリと軋み、木々がごうごうと騒ぎます。以前は強風で倒れる木もありましたが、最近ではそこまでの突風は吹かなくなりました。でも去年は屋根の一部が吹っ飛びました。停電も多くなります。

 

天気のいい日は林に入って木を切り、薪集めをしています。

外仕事の出来ない日は、家で習字をしたり、本を読んだり、粘土でお地蔵様を作ったりしています。

 

私はここで生きているんだな。生きさせてもらっているんだな。何をしていてもそう感じます。

自分の意思で動ける体に感謝します。

8月は難病で逝ってしまった姉の命日と誕生日の月です。私にとっては特別な月です。

生きている事は本当に尊い、有難い、嬉しい、幸せだと思えます。

 

 

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露天風呂から見上げるさくらんぼの木です

 

サウナ ミソ

気がつくと8月。

雨や曇りのどんよりした毎日です。朝、マイナスに気温が下がる日が続いています。

でも春先にいつもやって来る、テロというシギの仲間の鳥が甲高い声で農場の上を飛び始めました。玄関前のボケの蕾が赤く膨らみ始めています。日中の時間が少しづつ長くなっているのを実感します。春の訪れを僅かにですが感じます。

コロナ禍での外出制限も街でのマスク着用も入店の人数制限も、それが当たり前の生活になってきました。

まだ寒くて野良仕事が出来ない事もありますが、「仕事が無くて厳しい」という声を時々聞きます。街では何時の間にか、閉店してがらんどうになったお店が目に付きます。

でも有難いことに、そして不思議な事に、私の作る豆腐と味噌はよく売れています。私を知らなくても、「トキコの味噌」「トキコの豆腐」は健康食に関心のある人達に知られる様になりました。

豆腐や味噌を作って生計を立てるなんて、移住当初は思いもしませんでした。そもそも私が日本以外で暮らすことなんて二十代の頃まで想像もしなかったし、私を知る人達だって同じだったでしょう。

何が起こるか、どうなるか分からないから人生は面白いのかもしれません。

 

さて、今年の目標の一つ サウナ作りですが、本格的なサウナを作る方向に進み始めました。

ボランティアと一緒に作るにしても、先ずは私がしっかりプランを立て、設計図を書いて、材料を揃え、リーダーシップを取って進めなければいけないと思いました。

場所を決め、サウナ小屋の図も書いて見ました。でもどんな材料を使うか、それを何処で手に入れるか、溶接はどうしようか、柱の立て方、高床の仕方、屋根の付け方、ドア、窓、肝心の水蒸気を作る方etc

調べれば調べるほど、自分が作っていく現実的なイメージが出来無くなりました。当たり前です。犬小屋を作ることとは訳が違いますし、今までそんな経験をしたことが無いのですから。そもそも犬小屋だって私はダンボールを軒下に置くことしかしてこなかったのですから。

それで囲炉裏のある家を作ってくれた友人にメールで相談しました。その時はどうやって小屋を建てるのかを教えて貰うつもりでした。

ところが私の計画を彼が面白がって、いろんなアイデアを持って家まで来てくれました。そして話しているうちに「君のサウナ作り」から「我々のサウナ作り」に主語が変わってきました。

当初の私のアイデアは外にサウナ小屋を建てるものでしたが、それでは材料費と手間がかかりすぎるという事で、手洗い洗濯場兼物置きにしていた場所を改造することにしました。

彼は室内で石を焼く温熱サウナを推薦しましたが、それだとサウナ用に薪を準備しなければならず大変です。私はストーブには使えない枝や葉っぱを整理を兼ねて燃やすのも一つの目的でしたから、部屋は痛みますが水蒸気式にしました。

どんどん具体的に話が進んで、しかも思いもしなかった場所と方法で、予算も豆腐と味噌で貯めた金額で十分出来る範囲に収まりました。と言うか、収めてくれました。

町に降りるたび、私は材木屋、ガラス屋、資材屋を回り、彼が書いてくれた必要なものを買いました。買い物は好きじゃないのですが、今回は楽しかったです。

特注の窓ガラスが届くのが3週間後。その頃には暖かくなって、作業も始められるでしょう。

 

私がここで自由に好き勝手に暮らせる年月は、今まで感じてきた時間の感覚とは違います。以前は自分に終わりがあるなんて思わず、先の不安や恐怖が有りましたが、今はいつかは終わる貴重な年月に変わりました。

残された時間、残っている時間。

具体的にそれがどの位かは分からないけど、今、生きさせてもらっている時間を、楽しんで面白がって感謝して、大切に味わっていこうと思っています。

 

サウナの名前は「サウナ ミソ」です。

いろんな人が利用してくれる事を想像して、今からワクワクドキドキしています。

 

 

 

 

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私の作ったフィナの豪邸

 

立ち止まらずに、進め 進め 進め〜!

雪と雨の多い冬です。

太陽を殆ど拝めません。

静かだなあと思って外をみると、しんしんと雪が降っています。

みるみる積って周りを白い世界に変えていく雪を、今年は静かな気持ちで眺めています。それは日本語教室を今年いっぱいは休講に決めたからです。私は怖いので雪道を運転しません。

でも私の住むマジン地区と、生徒さんが住むボルソン地区、ラゴプエロ地区では標高が違い、こちらが雪でもあちらは雨の時が多く、休講の連絡が取れずに今までは何時もヤキモキしていました。

日本なら電話がありますが、我が家にはそんな高度なものは無く、天気が悪いとwifiも使えないのです。

「どうしよう。いつ止むんだろう?。雪道運転できるかなあ。困ったな。」

でも連絡が取れずヤキモキするなんて、今の日本じゃ経験出来ない貴重な気持ちだったと気づき愛おしくなりました。

雪の重みで道を塞いだ枝や木の整理や、凍って詰まらないよう水回りの確認、電線の確認などが有り正直大変ですが、こんな事も後何回経験できるんだろう?と思うと貴重な時間に思えますし、普通私の歳じゃこんな事しないよね。私って凄い。と動ける自分に感謝したくなります。

暮らす事は生きる事。生きる事は楽しむ事。楽しむ事は感謝する事。そんな風に思える今がとても好きです。

2月から突然、本当に突然変わってしまった世界ですが、最初は戸惑い不安もありましたが、半年近く過ぎ、そんな世界にも慣れてきたように思います。

特に私の住む地区は感染者ゼロ。中心的ボルソン地区も3月に3人の陽性者が出ただけで、しかもそれがヨーロッパへ休暇に行った市長と隣町から来た警察官という感染経路がはっきりしていた人で、ネットもテレビも見ない人が多いので、情報からのコロナの恐怖は私を含め殆どの人が持っていないと思います。

でも生活は激変しました。隣の州へは未だに許可なしではいけません。お店も人数制限は続いています。マスク着用は義務です。観光地でありながら、スキー場もレストランもクラフト市も人が集まる場所は閉鎖です。学校も休講が8ヶ月続いています。 

私は幸い豆腐と味噌が売れ、どうにか生活できていますが、音楽や絵画、演劇など観光客相手に生活していた人たちは大変そうです。でもアルゼンチンの良いところは、本当に貧しい人には優しいと言う事です。電気も水道もガスも家賃も払えなくても止められたり追い出される事はありません。炊き出しもあります。

日本人と違い「助けて」と言うことに、抵抗ある人は殆どいません。どちらかと言うと「助けろ!」的で、持っている人から奪うのが権利みたいな所もあり、ちょっと困りますが。

それにみんな逞しいです。

寒い中、信号待ちの車の前で芸をする若者。パンやお菓子、惣菜を作って一軒一軒売り歩く主婦。柵直し、雪掻き、薪集め、出来る事を提供して稼ぐ男性。

大きな事は出来なくても、小さな事を大切にしていけば、それはとても強く広く繋がっていくのだと分かりました。

私の生活もこのコロナ禍で少し変化したように思います。それはほんの少しだけですが、新しい友人や知人が出来、外に向かって気持ちを開いた事です。

人付き合いが苦手で、賑やかな事も自分の興味のない事も嫌いで、今までは誕生会や食事に招待されると、(困ったな。ただ単に社交辞令で声をかけてもらっただけなんだし、どうやって断ろう。)と真っ先に考えていました。

でも今は、例えそうであっても、誘ってもらえた事を感謝します。そして都合をつけて参加するようにします。相変わらず会話は苦手で居ずらいことも多いですが、それでも楽しもうと思っています。

先日も、友人の友人の友人がマジンの友人宅でミニコンサートを開きました。みんなで食べ物を持ち寄り、入り口に箱があって参加費はお気持ちで!と言う形式。(コロナ禍の三密を完全無視しちゃってますが)

個人宅なので大きく無かったのですが、それでも30人くらいが集まりました。みんな床に胡座をかいたり、寝そべったり想い想いの姿勢で聴き始めました。ギター一本の弾き語りコンサート。トークでみんなが大笑いすると、訳もわから無いのに可笑しくなり一緒に笑いました。

みんなが歌い踊り出すと、私も大きく手拍子足拍子をしました。(でもまだ一緒に踊るレベルまではいけませんでした)

出来る事をやっていこうよ。みんなで楽しもうよ。今を楽しもうよ。そんな気持ちが伝わってきました。

それは長い私の人生で一番欠けていた気持ちだったと、気づきました。

まだまだ自分で企画して人を集めてと言う事は出来ませんが、誘ってもらったら喜んで何にでも参加しよう。その時を楽しもうと思っています。

そして餅つき大会か、焼き物の穴窯焚きか、太鼓なんかの日本楽器や踊りができる人を招待してのミニコンサートか、何か私らしい、日本的な事をこの農場で企画実行してからこの世界を卒業していこうと決めました。(だからまだまだくたばる訳にはいきません!)

 

 

 

 

 

 

 

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ニコンサート

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我が家の雪景色