時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

「生命力」

14歳の猫「福」。
猫の寿命が何歳なのか知りませんが、一日中暖房の入った町の暮らしと違い、薪暖房の我が家では夜は冷え込んで室内でも零度近くまで温度が下がり、寒がりの猫には暮らしやすい環境ではありません。多くの猫と暮らしましたが、14歳になったのは福が初めてです。
以前の様に外出も、ネズミや小鳥を咥えて来る事も無くなりましたが、毛並みも良く食欲もありました。
その福が先週水曜日の朝ゼイゼイと吸うのも吐くのも苦しそうに息をしていました。一日中ヒーハーヒーハーと呻きながら体を震わせ、苦しいのかヨタヨタしながら徘徊を始めました。それが昼も夜も続きます。勿論何も食べませんし、水さえ飲めません。そんな状態が何日も続きました。
あまりに辛そうで苦しそうで、一緒にいる私が辛くて耐えられなくて、5日目の日曜日、明日になったら町の獣医に連れて行こうかと一瞬気持ちが揺らぎました。
でも福は車に乗るのが大嫌いだったし、人に無神経に触られるのも嫌がって、抱っこも出来ませんでした。どんなに寒くても人の温もりを利用して布団に入って来たりもしませんでした。だからそんな福が車に乗せられ獣医に連れて行かれて、薬を飲まされたり、点滴を打たれる事を望むだろうか?と考えました。
そして私だったら何を望むだろうと考えました。私は怪我以外で病院へ行く気はありませんし、薬も決して飲みません。苦しいのは嫌ですが、自分の納得のいかない治療は受けたくはありません。私でさえそう思うのなら、もっともっと自然に近く生きてきた福なら、人工的な治療は望まないんじゃあないかと思ったのです。
できるだけ暖かくして、脱脂綿に水を含ませて時々口を湿らせてあげ、声をかけてあげる。私に出来る精一杯の事をしてあげるしかない。でも正直もうこれ以上苦しめないで欲しい楽にしてあげて欲しいと心底願いました。
日曜日、歩き回る福を見ていたら、この子は少し高い場所で首を下にして寝たらもう少し楽になるかも、と思い立ちました。そこでダンボールを逆さにして低いベットを作り、その上に毛布を敷きストーブのそばに置いてみました。すると福がその上に寝てくれたのです。
その夜からヒーヒーとする息の音が少なくなりました。そして月曜日の朝は自分から水を飲みに行ったのです。
私は福の生命力に感謝しました。自然に生きるという意味が分かった気がしました。人工的な治療を受けさせなくて良かったと思いました。そして福の命を、自分勝手に「もう楽にしていあげたい」などと望んだ事を恥じました。
今福は椅子に座った私の膝に飛び乗って来て、グルグル喉を鳴らしています。時々咳をしますが、呼吸困難でヒーハー言っていたのが嘘の様です。
この先いつまで一緒に居られるか分かりませんが、どんなに風になっても福と自然に任せ様と決めました。こんな私の考えを「動物虐待。きちんとした治療をしてあげないのは可哀想。」と嫌悪する人もいるでしょう。でも私は福の生命力を信じ従おうと思います。
そして私も福と同じ生き物として、福の様に生きたいと思いました。