時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

「消えた。無くなった。でも気持が軽くなった。」

先日、犬のパクの似顔絵を描こうと思い、PCの写真フォルダを開けて目が点になりました。
フォルダの中身が空っぽになっていたのです。
えっ??
しばらくは状況が把握できませんでした。
何にもない?
どうして?

写真はこのPCを買った4年前から保存していたものです。自分が撮ったものと友人たちから送ってもらったもので、削除したものも多いですが、かなりの量があ りました。
実はその前日、時間があったので写真の整理をしました。年代別や行事別に分けたりして、PC音痴の私はどっと疲れました。
きっとトロイ私は気付かないうちに変な操作をしてしまったのでしょう。何をしたのか全く記憶にありませんし、あれ?と思う様な事もありませんでした。です から翌日写真フォルダを開けて空っぽになっていた時は、何がどうなっているの か分かりませんでした。PCに詳しい方に探してもらいましたが、完全に削除され どこにも残っていませんでした。
でも不思議とがっかりはしませんでした。

トランク一個で始めたアルゼンチン生活なのに、気が付くと私の周りは物でれてます。必要だと思ったから所有した筈なのに、日常の暮らしの中で 使ってい る物なんてほんの僅かです。もっとシンプルに、もっと自然に、これが今、私の目指している事です。

ずっと以前、ある女性がひっそりと病院で亡くなりました。財産も土地も持たず、残ったのはほんの僅かな彼女の身の回り品だけ。
彼女の知人が「あまりにも寂しすぎる。」と私に泣きながらその話をしました。でも私はその時、とても不謹慎かもしれませんが、彼女の人生が寂し かったと は思いませんでした。どれだけの物を残すかじゃなくて、どう充実させて生きて きたかであって、それは他人が判断する事じゃないと思ったのです。私も消えて しまう時は、そんな風に何も残さないでいたいとさえ思いました。

それ以来、人が引き続き使えるものや必要とするものだけ残して、後は整理しようと決めました。特に日記や手紙類は、私以外には何の価値もないのでお風呂を 沸かす時薪と一緒に燃やしました。
でも写真は私の個人スナップは躊躇うことなく処分出来ましたが、他はなかなか出来ずにいました。
実は5年くらい前PCを無くした時、それまでの写真を全て失いました。その時はとてもがっかりしました。でも写真を無くしたからって、その後の私の人生が 大きく変わったわけでもないし、たとえ持っていても、大して見直したりしてい なかっただろうと思います。それに今は亡き犬猫たちの姿を見るのは まだ辛い ものがあります。
無くなってしまって勿体無いな、と少しは思いますが、私の持っていた写真なんて、私以外には何の価値も無いもの。後世に残すべきものでもありませ ん。子 供のいる人ならその子の為に残していくべきですが、私の場合、私が子供たち(犬猫たち)を見送って行くことになるのだからその必要もありま せん。

パクの似顔絵を描こうと思ったなら、写真なんかじゃなく、目の前に居る生きたパクを描けばいい事です。
それに写真がなくても、何時だって会いたい時に会いたい人や子供たちに心の中で会え、行きたい場所へ行けます。写真に残す事よりも、今、目の前にある事を自分の目で見て、体と心で感じて、生の感動を残していくべきだと思いました。

そう思いながら、最初に写したのがこの写真です。親ばかですよね・・・。