時子のパタゴニア便り

1994年パタゴニア アンデス山脈の麓の村の5’5ヘクタールの土地に移住。ささやかな自然との暮らしの中で感じた事を書いていきます。

「蜘蛛の糸」

小学6年生の時、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を、国語の時間に読みました。地獄に落ちた“かんだた”ですが、生前蜘蛛を殺さずに助けた事があったので、お釈迦様は蜘蛛の糸を垂らして彼を助け様とします。けれども“かんだた”は、自分の蜘蛛の糸にすがって登ってくる他の罪人を見て、その重みに耐えられず糸が切れてしまう事を恐れ、「この蜘蛛の糸は己のものだぞ・・・・下りろ。下りろ。」と喚きます。その途端、蜘蛛の糸は“かんだた”の上でぷつりと切れてしまうのです。

初めてこれを読んだ時、先ず私は「蜘蛛は絶対に殺さない。」と決心しました。

それから、糸が切れて地獄へ落ちていった“かんだた”を眺めているだけのお釈迦様を、とても残酷だと思いました。

細い蜘蛛の糸に沢山の人がぶら下がったら切れてしまうのは当然で、「下りろ」と喚いた“かんだた”は当たり前の事を言っただけです。それなのに、糸を切り(その当時、私はお釈迦様が糸を切ったと誤解していました)地獄に落ちていく“かんだた”を、ただ極楽で見ていただけのお釈迦様を酷いと思ったのです。

感想文で「自分だけ助かろうとしたから糸が切れたのだと思います。」と書いていた級友達に、「あれは“かんだた”の蜘蛛の糸だったのに、どうして下りろと当たり前の事を言っただけで、切れてしまうのか。他人の蜘蛛の糸を利用して助かろうとする他の罪人は狡いし、自分に正直だった“かんだた”が可哀相だ。誰だって、自分の蜘蛛の糸にすがってくる他の人に“下りろ”と叫ぶに決まっている。」と随分反発した気持ちでいました。

この考え方は、可成り最近まで私の中にあったと思います。私はみんなで何かするとか、助け合うという事がとても苦手だったのです。

でも、今は違います。蜘蛛の糸はどれだけ多くの人がぶら下がっても、どんなに強い風に煽られても、決して切れる事はないと分かったからです。「ダメだ。」という否定の気持ちだけが、切れる筈の無い蜘蛛の糸を簡単に切ってしまうのです。

私の書く物は、時として読んだ人を不愉快にさせる、暗い気持ちにさせるとサイト管理者である夫から指摘され、このブログを書けなかった数ヶ月、私の周りの自然は冬から初夏へと移り変わりました。

「ああ、猫柳が芽をふいた。」「桜が咲いた。」「ポプラの新芽が赤く色づいて夕陽に光っている。」「たんぽぽの花のシャンパンが美味しくできた。」「リンゴの花の上に、季節外れの大雪が積もった。」「野生蘭が甘い香りを漂わせている。」「空豆が芽を出した。」

嬉しい、楽しい、綺麗だ、可愛い・・・・ああ、伝えたい、誰かに伝えたい、一緒に楽しみたい、見せてあげたい。

独りよがりな幸せですが、そういう気持ちが日増しに強くなっていきました。そして、旅行や滞在ではなく、ここで暮らしているからこそ感じる事の出来る気持ちや、見えてくる事を、もう一度素直に書いてみたいと思ったのです。それがもし、読んだ人を不愉快にさせてしまったのなら残念ですが、その時はその人が「プチリ」とブログを閉じて下されば良いと思い直しました。

夫の意見は貴重な物だったのです。それなのに、「私はだめだ。もう書かない!」と思ってしまい、その瞬間、私のつかんだ蜘蛛の糸は切れてしまったのです。

独りよがりなパタゴニア便りですが、またゆっくりペースで再開します。

皆様のご意見やご忠告は、私への最高の贈り物だと思っています。お待ちしています。そしてこれからも宜しくお願いします。

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写真解説

久しぶりの更新になりました。

またようやくお約束を果たすことが出来ます。本文とは全く関係ありませんが、花の写真です。

先日友人たちと焼き物の釉に使う石を探しにチュブット州の乾燥地帯へ行ってきました。そこで撮影したものです。

この植物は「モージェ(molle)」(もしかしたらスペルが間違っているかもしれません。)と呼ばれるマメ科(?)植物です。

チュブット川沿いにたくさん生えていますが、激減しています。非常に良い薪になります。

乾燥地帯へ行きキャンプする時、夕飯はたいていアサード(焼き肉)です。その時このモージェがあると本当に助かります。

火力が強く、嫌な香りもないので、短時間に美味しく肉が焼けます。